エムバペが中国のテレビから消えた。
けがをしたわけでも、試合に出られなくなったわけでもない。フランスのサッカー選手キリアン・エムバペが、インターネット上の冗談について余計なことを口にしたためである。
中国の大手企業3社が広告契約を解除し、国営テレビはスペインリーグの中継を停止した。本人も所属クラブも謝罪したが、11月1日の試合まで放送は再開されなかった。
随分と大きな話になったものだ。
11月1日付の東京スポーツは、スペインサッカー界が中国市場で最大700億円規模の収益を失う危機にあると報じている。
もっとも、これは確定した損失ではない。放映権やスポンサー契約など、失われる可能性のある市場収益についての試算である。
それでも、スペインリーグのハビエル・テバス会長が中国大使と会談する事態にまで発展した。
たった一人の選手の発言で、世界有数のサッカーリーグが外交問題のような対応に追われている。
中国市場は、随分と厄介な商売相手になったものである。
発端は一枚のネット画像だった
騒動の発端は、エムバペが出演したフランスの番組「The Bridge」だった。
今年4月に収録され、10月下旬に公開されたインタビューで、エムバペは自分を題材にしたインターネット上の画像について質問された。
そこで、気に入っているものとして挙げたのが、自分の顔を中国の指導者の身体に合成した画像だった。
そして、その人物を「中国の独裁者」と呼んだ。
毛沢東を指していると受け止められ、中国のSNSでは批判が広がった。
毛沢東は中華人民共和国の建国を主導した人物である。中国の政治体制における特別な存在だ。
エムバペに悪意があったのかどうかは分からない。本人にとっては、ネット上に出回る冗談を紹介しただけだったのかもしれない。
しかし、発言は思わぬ方向へ転がっていった。
10月27日、中国の飲料メーカー、東鵬飲料がエムバペとの協力関係を終了すると発表。続いて蒙牛乳業、妙可藍多も契約を解除した。
中国外務省の郭嘉昆報道官は同日の会見で、中国人民の感情を傷つける言動は、中国社会の各界から抵抗を受けると述べた。
さらに、中国中央テレビ(CCTV)がスペインリーグの中継を停止した。
エムバペは同日、SNSで謝罪した。レアル・マドリードも28日には正式な謝罪書簡を送っている。
だが、CCTVは当初のクラブ側の説明に納得せず、11月1日の試合も放送しなかった。
ここで、私は少し引っかかった。
発言を不快に思う人がいる。それは分かる。
スポンサー企業が自社の評判を考えて契約を解除するのも、企業としての判断だろう。
しかし、スペインリーグの中継そのものを止める必要があるのだろうか。
レアル・マドリードには、エムバペ以外にも選手がいる。スペインリーグには、バルセロナもアトレティコ・マドリードもある。
今回の発言と何の関係もない選手たちの試合まで、見られなくなる。
中国人の感情を守るために、中国人が楽しみにしているサッカーを見せない。
何とも奇妙な話ではないか。
2008年の北京で見た、愛国心と商売
今回の騒動を見ていて、北京五輪の開会式の日を思い出した。
2008年8月8日。
私は北京の街を歩き回り、五輪の開幕を待つ市民たちの様子を取材していた。
その翌日に掲載したのが、「市民の熱気ムンムン! 熱く燃えた8月8日」という記事である。
あの日の北京は、朝から熱気に包まれていた。
街のあちこちで中国国旗が振られ、国家体育場「鳥の巣」の周辺には大勢の人々が集まった。
大きな中国国旗を掲げた学生たちが、千人規模の集団となって街を練り歩いていた。
「がんばれ、中国!」
学生たちは大声で叫びながら進み、警察官が行く手を止めようとしても、なかなか引き下がらない。結局、警察官が説得して行進のコースを変更させた。
愛国心を爆発させている若者たちを、同じ中国の警察官が規制する。
何とも中国らしい光景だった。
あのときの熱気は、今でも印象に残っている。
中国にとってスポーツは、単に競技を楽しむためだけのものではない。国家の威信を示す舞台でもあるのだと、改めて感じた。
同じ記事では、北京五輪開会式の最終聖火ランナーを務めた李寧についても書いた。
李寧は、中国を代表する体操選手として活躍したあと、自分の名前を冠したスポーツ用品メーカーを育てた実業家である。
私は当時、李寧の登場について、中国が「国家のためのスポーツ」を「“金になる”スポーツ」に変えていこうとしている象徴ではないか、と書いた。
それから18年。
中国企業が欧州の有名クラブや世界的なスター選手に巨額の資金を投じるようになった。
エムバペも、その一人だった。
東鵬飲料は今年のワールドカップを前に、彼を広告に起用していた。世界的なスターの知名度を利用し、中国の消費者に商品を売ろうというわけだ。
一方、スペインリーグにとっても、中国の放映権やスポンサー収入は重要な市場である。
まさに、スポーツが金になる仕組みだ。
ところが、ここへ政治が割り込んできた。
いや、中国の場合、スポーツと政治が完全に切り離されていた時代など、そもそもなかったのだろう。
国の威信と商売。この二つを、都合よく使い分けることはできない。
中国企業の資金は欲しい。しかし、中国の政治的な敏感さには関わりたくない。
欧州サッカー界がそんなつもりでいたのなら、少々考えが甘かったということだ。
スター選手の発言を、誰が裁くのか
もう一本、当時の記事を読み返した。
2008年4月30日付の「選手がマスコミ不信? 中国の五輪報道事情」である。
北京五輪を控えた中国では、スター選手の一挙手一投足にメディアの関心が集まっていた。
飛び込みの郭晶晶が、記者会見での態度を批判され、本人が弁解する騒ぎも起きた。
私は当時、選手たちが背負わされているプレッシャーを問題にした。
しかも、その重圧をつくり出しているのは、ほかならぬ中国のメディア自身ではないか、とも書いた。
「人民の期待」という言葉は便利である。
だが、その期待を誰が代表しているのかは、案外はっきりしない。
今回のエムバペ騒動では、今度は外国の選手がその標的になった。
もちろん、エムバペの発言を批判することは自由だ。国際的なスター選手なのだから、他国の歴史や文化への配慮も求められるだろう。
ただ、批判が正当かどうかを考えるには、本人が何を言ったのかを知る必要がある。
オーストラリア公共放送ABCの取材では、中国のSNSに、契約解除のニュースばかりが広まり、肝心の発言内容が分からないという投稿もあった。
中国のサッカー情報サイト「懂球帝」は、エムバペの発言を不適切だとして、その内容を翻訳しないと表明した。
何を言ったのかは伝えない。
しかし、謝罪や契約解除は大きく報じる。
これでは、読者が自分で判断する材料まで失われてしまう。
そして、私はもう一つ聞きたい。
エムバペを批判することと、彼のプレーを見ることは、両立しないのだろうか。
言動には腹が立つ。しかし、サッカーはうまいから試合を見たい。
そんな中国人がいても、何もおかしくないはずだ。
世界的なスターを商売に利用するのであれば、その選手が自分たちとは違う文化や価値観の中で生きていることも、ある程度は受け入れなければならない。
気に入ったときだけ歓迎し、気に入らない発言があればテレビから消す。
それでは、あまりに一方的ではないか。
その週末、南京には6万人が集まった
エムバペ騒動が広がっていた10月31日、中国ではもう一つ、興味深いサッカーのニュースがあった。
南京で行われた江蘇省都市サッカーリーグ、通称「蘇超」の決勝である。
無錫と常州が対戦し、無錫が2対1で優勝した。
この試合を見ようと、南京オリンピックスポーツセンターには6万2356人が集まった。
6万人を超える観客である。
レアル・マドリードでも、バルセロナでもない。
江蘇省の都市を代表するチーム同士の試合だ。
同じ週末に、中国では二つの対照的な出来事が起きていた。
一方では、欧州サッカーのスター選手の発言をめぐって、テレビ中継が止まる。
もう一方では、地元のチームを応援するために、6万人以上の観客がスタジアムへ足を運ぶ。
もちろん、蘇超の人気と今回の騒動に直接の因果関係はない。
ただ、どちらも中国のサッカーファンの姿である。
世界のスターに憧れる人もいれば、地元のチームを応援する人もいる。
欧州の強豪クラブの試合を見たい人も、自分の街のチームが勝つことに喜びを感じる人もいる。
中国のサッカー市場が大きくなったというのは、単に外国の有名選手に高額な広告費を払えるようになったことではない。
地元のサッカーを見ようと、6万人が集まるようになったことにも、その変化は表れている。
私は、こちらの方がむしろ面白いと思う。
サッカーの魅力は、国家が誰を歓迎するかによって決まるものではない。
どの試合を見たいか。誰を応援したいか。
本来、それを決めるのはファン自身のはずである。
700億円よりも気になること
さて、東スポの見出しにあった700億円である。
これだけの金額を失う可能性があると聞けば、スペインリーグの経営陣が慌てるのも無理はない。
しかし、実際にどれほどの損失が発生するかは、まだ分からない。
エムバペ個人の広告契約と、レアル・マドリードのクラブスポンサー契約も別である。CCTVの放送停止が、中国のすべての配信サービスからスペインリーグが消えたことを意味するわけでもない。
金額だけが一人歩きするのは、避けたいところだ。
ただ、今回の騒動には、もっと大きな問題が潜んでいると思う。
中国市場で商売をする外国のクラブや選手は、当然、中国の消費者を大切にしなければならない。
歴史や文化を尊重することも必要だ。
しかし、そこで求められるのが、特定の政治的な価値観に反しない発言をすることまでだとしたら、話は違ってくる。
サッカー選手は、政治家ではない。
それでも、その言葉が政治的に問題視されれば、スポンサー契約が解除され、リーグ全体の放送まで止まってしまう。
これでは、サッカーそのものが、ずいぶん不自由な商売になってしまう。
私は2008年の北京で、五輪に熱狂する中国人の姿を見た。
あのときの熱気は本物だった。
だからこそ、中国のサッカーファンも、国家や企業が示す判断とは別に、自分の好きなサッカーを楽しむことができてほしいと思う。
エムバペの発言に腹を立ててもよい。
それでも、次の試合は見たいと思ってもよい。
そんな当たり前のことまで、誰かが代わりに決める必要はないだろう。
今回の騒動で700億円を失うかもしれないと心配しているのは、欧州サッカー界である。
だが、私はそれよりも、中国のサッカーファンが失うものの方が気になる。
金は、また稼げばよい。
しかし、見たい試合を見るという楽しみまで、金で取り戻せるわけではないのである。
<了>
参考資料
東京スポーツ「エムバペ騒動で中国側が『謝罪が不十分』 リーグなどスポンサー撤退危機で700億円損失か」(2026年11月1日)
央视体育「总台体育青少中心发言人:不认可皇马的表态」(2026年10月28日)
央视体育「向中国人民道歉!总台确认收到皇马道歉函」(2026年10月28日)
ABC News「Chinese sponsors cut ties with Kylian Mbappé after Mao meme backlash」(2026年10月27日)
人民網「无锡队夺得第二届『苏超』冠军」(2026年11月1日)

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