中国卓球界で、何とも後味の悪い事件が起きた。
10月6日、北京で行われたWTT中国大満貫大会で、中国男子卓球代表の王皓監督が、一部のファンに取り囲まれ、罵声を浴びせられた。王皓監督はその場で証拠を記録し、警察に通報。10日には北京市公安局石景山分局が、侮辱行為に加わった20人のうち、19歳の女性2人と16歳の女性1人に行政拘留処分を科し、残る17人には批判教育を行ったと発表した。
監督の采配に不満を持つファンは、どこの国にもいる。試合に負ければ監督の責任が問われ、選手の起用をめぐって批判が起きるのも珍しいことではない。だが、監督が競技場で取り囲まれ、警察が介入するとなれば、話は別だ。
しかも、今回処分された3人はいずれも10代の女性である。
中国卓球は世界最強の座を長く守り続けてきた。その卓球界で、いったい何が起きているのか。
■ 国家の勝利を支えてきた「挙国体制」
中国において、卓球は単なる人気スポーツではない。
1959年の世界卓球選手権で容国団が中国初の世界王者となり、1970年代には「ピンポン外交」で米中関係改善のきっかけをつくった。その後も世界選手権や五輪で圧倒的な強さを見せ、中国の国威を象徴する競技として特別な地位を築いてきた。
その強さを支えてきたのが、中国独特の選手育成システム「挙国体制」である。
各地の体育学校で幼い頃から優秀な選手を発掘し、省代表、国家代表へと送り込む。選手は厳しい選抜を勝ち抜き、国際大会でのメダル獲得を目指す。国家が人材と資金を集中的に投入し、世界の頂点を狙う仕組みだ。
私も2000年代、北京の体育学校を取材したことがある。まだ小学校に入るかどうかという子どもたちが、コーチの厳しい指導の下、体操や卓球の練習に励んでいた。優秀な選手は上のレベルへ進み、見込みがないと判断されれば選抜から外れる。世界王者を生み出すための、実に徹底したシステムだった。
こうした仕組みでは、何よりも代表チーム全体の勝利が優先される。
誰を起用するか、どの大会に出場させるか。監督や競技団体は、個々の選手の人気ではなく、チームとしての戦略に基づいて判断することになる。
ところが、ファンの側はそうではない。
自分が好きな選手に試合へ出てほしい。勝ってほしい。ほかの選手よりも活躍してほしい。
ごく当たり前の感情である。
だが、その選手が起用されなかったとき、あるいは期待した結果を残せなかったとき、その不満が監督やほかの選手に向かうことがある。
国家代表として勝利を目指すチームと、個人のスターを応援するファン。その思惑が、必ずしも一致するとは限らないのである。
■ 卓球界にも押し寄せた「飯圏」文化
中国では近年、スポーツ界に広がる「飯圏(ファンチュエン)」文化が問題視されている。
もともとは芸能界の熱狂的なファン集団を指す言葉だ。SNSで特定のスターを応援し、情報を拡散し、時にはファン同士が対立する。そうした文化が、卓球をはじめとするスポーツの世界にも広がってきた。
ただ、選手に熱狂的なファンがつくこと自体は、決して新しい現象ではない。
2000年代にも、姚明や劉翔といった国民的スターがいた。2004年アテネ五輪で劉翔が男子110メートル障害の金メダルを獲得したとき、中国国内は大変な盛り上がりを見せた。姚明がNBAで活躍する姿に、多くの若者が熱狂した。
彼らは国家の英雄であると同時に、個人としても絶大な人気を集めていたのである。
では、現在とは何が違うのか。
大きな違いの一つは、SNSの存在だろう。
かつて選手の情報を伝える中心は、新聞やテレビなどのメディアだった。だが現在は、ファン自身が情報を発信し、瞬く間に拡散することができる。好きな選手の活躍を広めるだけでなく、監督の判断に異議を唱え、ほかの選手を批判することも容易になった。
しかも、ファン同士が集団をつくり、互いの行動を刺激し合う。
自分が応援する選手を持ち上げるために、別の選手を攻撃する。監督の起用方針に不満があれば、SNSで批判を繰り返す。そうした言動がエスカレートすれば、今回のような事件にもつながりかねない。
もっとも、今回の事件に関わった20人が、どのような経緯で行動したのか、その全容が明らかになっているわけではない。熱狂的なファン全体を、今回の事件と同一視することはできないだろう。
問題は、応援することそのものではなく、その行動がどこまで許されるかという点にある。
■ 「取り締まり」で解決するのか
事件翌日の10月7日、中国卓球協会は声明を発表し、過激なファンによる行き過ぎた行為に反対する姿勢を示した。
協会は、関係者の警察への通報を支持するとともに、問題行為を繰り返す人物の競技場への入場を制限する方向も示している。
監督や選手の安全を守るためには、当然の対応といえよう。
しかし、ここで一つ気になることがある。
監督の選手起用に不満を持つこと自体は、果たして問題なのだろうか。
例えば、ある選手が代表に選ばれなかったとする。ファンがその理由を知りたいと思うのは自然だし、監督の判断に疑問を持つこともあるだろう。
もちろん、監督がファンの要求に従って選手を起用するようでは、代表チームの運営は成り立たない。
だが、だからといって、監督の判断が一切の批判を受け付けないということにはならない。
中国卓球協会が取り締まるべきなのは、監督を取り囲んで罵倒したり、選手に嫌がらせをしたりする行為であって、選手起用に対する疑問や批判そのものではないはずだ。
この点について、10月13日の新華社の記事は、理性的な議論や批判と、侮辱や嫌がらせを区別する必要性を指摘している。
また、19日の財新の論評も、ファン集団全体にレッテルを貼るのではなく、実際に行き過ぎた行為を対象とした対応や、率直なコミュニケーションの重要性を訴えた。
興味深いのは、中国国内でも、単に過激なファンを取り締まればよいという議論ばかりではないことである。
確かに、暴言や嫌がらせには厳しく対処しなければならない。だが、ファンが抱く疑問に十分な説明がなければ、憶測や不信感が広がる可能性もある。
その意味では、競技団体の側にも課題があるといえよう。
■ 国家代表とスター選手の間で
中国卓球は、長く国家主導の競技スポーツを象徴する存在だった。
国家が優秀な選手を育成し、代表チームを組織し、国際大会で勝利を重ねる。その結果を国民が喜び、国家の発展を実感する。
いわば、国家と選手、そして国民が「勝利」という一つの目標を共有する仕組みである。
だが、スポーツの商業化が進み、個々の選手がスターとして人気を集めるようになれば、その関係も変わってくる。
ファンが求めるのは、必ずしも国家代表チームの勝利だけではない。自分が応援する選手の活躍であり、その選手が正当に評価されることでもある。
そこには、国家の論理とは別の価値観が存在する。
もちろん、両者が常に対立するわけではない。人気選手が代表チームを勝利に導けば、国家もファンも喜ぶだろう。
だが、選手の起用やチームの方針をめぐって意見が分かれたとき、その矛盾が表面化する。
今回の事件は、その一例と見ることができるのではないか。
もっとも、中国卓球協会にとっても、ファンの存在は無視できないはずだ。
競技場を満員にし、テレビやインターネットで試合を視聴し、関連商品を購入する。そうしたファンの存在は、卓球の人気を維持し、競技を発展させるうえで大きな力となる。
一方で、人気が高まれば、競技団体の判断に対する関心や批判も増える。
人気選手の存在によって競技を盛り上げながら、ファンの意見は受け付けないというわけにはいかないだろう。
中国卓球界は今、そうした難しい問題に直面している。
■ 中国卓球は誰のものか
今回の事件で、3人の若い女性が行政拘留処分を受けた。
監督を取り囲んで罵倒する行為が許されないのは当然である。競技場の秩序を守り、監督や選手の安全を確保するためにも、必要な措置だったといえよう。
だが、処分をもって問題が解決したと考えるのは早計だ。
そもそも、なぜファンが監督の起用方針にこれほど強い不満を持つのか。競技団体は、そうした疑問にどこまで説明を尽くしているのか。そして、国家代表チームの勝利と、個人選手を応援するファンの思いを、どのように両立させていくのか。
中国卓球が今後も世界の頂点に立ち続けるためには、こうした問題を避けて通ることはできないだろう。
かつて中国の競技スポーツは、国家が選手を育て、国家のために勝利を目指すという仕組みで発展してきた。
しかし、スポーツを見る側の意識は変わっている。
ファンは、ただ国家代表チームの勝利を喜ぶだけの存在ではなくなった。自分が応援する選手を持ち、その活躍を求め、ときには代表チームの判断に異議を唱える。
それ自体は、スポーツが社会に根付いてきたことの表れでもある。
問題は、その熱狂をどう受け止め、健全な応援文化へと育てていくかである。
中国卓球は、国家のものなのか。それとも、選手やファンのものなのか。
この問いに、どちらか一方という答えを出すことはできない。
ただ、これまで「勝つこと」に圧倒的な強さを見せてきた中国卓球が、これからは「応援されること」の難しさにも向き合わなければならない。
世界最強の卓球王国にとって、それはメダルを獲得することとはまた違った、厄介な課題となりそうだ。
<了>
