中国政府が推進する「全民健身(全国民フィットネス)」政策は、国民の健康促進のみならず、スポーツ産業の発展を加速させる国家戦略として大きな影響を及ぼしている。本報告では、この政策の展開とスポーツ産業の成長、さらには社会全体に及ぼす多面的な影響について考察する。
中国は2025年までに「定期的に運動する国民の割合を38.5%以上に引き上げ、スポーツ産業規模を5兆元(約85兆円)に拡大する」という野心的な目標を掲げている。都市部ではジョギングやフィットネスジムの利用が急増し、農村部でも公共スポーツ施設の整備が進む中、この国家戦略は健康促進を超え、経済成長と社会変革の推進力となりつつある。
全民健身政策の歴史的発展と背景
全民健身政策は、中国が「スポーツ大国」から「スポーツ強国」へと発展する中で生まれた国家戦略である。2008年の北京オリンピック後、胡錦濤政権下でスポーツの位置づけが強化され、2014年には国務院が「スポーツ産業の発展加速とスポーツ消費促進に関する若干の意見」を発表し、全民健身を正式に国家戦略と位置づけた。
政策は大きく三つの発展段階を経てきた。第一段階の「始動期」では、法制度の整備や基礎的なインフラ整備が進められた。第二段階の「深化期」では、北京オリンピックの成功を契機にスポーツ熱が高まり、118の関連政策が発表された。そして現在の「最適化・向上期」では、国民健身のシステムがさらに整備され、新たなフェーズへと突入している。
この政策の背景には、生活習慣病の増加や高齢化といった社会問題の解決と、スポーツ消費の拡大を通じた内需刺激という経済的な狙いがある。政府は、国民の健康水準を向上させ、医療費の削減につなげることを重要視している。
第五次全民健身計画(2021〜2025年)の目標と施策
2021年8月、中国国務院は「全民健身計画(2021〜2025年)」を発表した。この計画では、スポーツ実施率の向上に加え、地域ごとの公共スポーツ施設へのアクセス格差を是正することが主要課題として掲げられている。
具体的な目標
- 2025年までに「定期的に運動する人口」を38.5%以上にする
- 県、郷鎮、村、コミュニティで「15分以内にアクセスできるスポーツ施設」の整備
- 1,000人当たりのスポーツインストラクター数を2.16人へ増員
- スポーツ産業の規模を5兆元(約85兆円)規模へ拡大
また、インフラ整備として、
- 2,000以上のスポーツ公園、フィットネスセンター、体育館の新設・改修
- 5,000以上の郷鎮(村のような集落)でフィットネス器具を配置
- 各地でスケート場の建設、公共体育館のデジタル技術を活用する改修
これにより、都市部・農村部を問わず、より多くの市民がスポーツに参加できる環境を整備することが目標とされている。
アウトドアスポーツと冬季スポーツの発展
中国政府は全民健身政策の一環として、アウトドアスポーツの発展にも力を入れている。2022年には「アウトドアスポーツ産業発展規画(2022〜2025年)」が発表され、2025年までにアウトドアスポーツの施設・参加者数を増加させ、産業規模を3兆元(約60兆円)超にする目標を掲げた。
また、冬季スポーツの発展も重点政策の一つである。北京冬季オリンピックを契機に「3億人を氷雪運動へ」というスローガンのもと、スキーやスケートを体験する市民が急増。屋内スキー場やスケートリンクの建設が進められており、冬季スポーツ市場の拡大が期待されている。
経済的影響とスポーツ産業の成長
全民健身政策はスポーツ産業全体に大きな成長をもたらしている。2014年に国家戦略として位置づけられて以降、スポーツ用品メーカー、ジム経営、オンラインフィットネスアプリといった関連ビジネスが急速に拡大。特にフィットネス市場は顕著な成長を遂げている。
主な成長事例
- フィットネスクラブ数が2001年の約500か所から2019年には約5か所へ増加
- マラソン大会の急増(2011年に22大会 → 2017年には1,000大会以上)
政府も2021年から2025年の計画の中で「スポーツ産業5兆元規模化」を明確に掲げ、スポーツを内需拡大の柱と位置づけている。
スポーツ参加の拡大と社会変革
全民健身政策の推進により、「運動する中国人」が増えつつある。特に都市部ではジョギングやフィットネスジムへの参加が日常の一部となり、運動習慣の定着が進んでいる。
また、スポーツの社会的役割も強化されており、企業や自治体がスポーツイベントを通じてコミュニティの結束を深めるケースも増加。さらに、学校教育でも体育の重要性が再認識され、体育の授業時間の確保やスポーツ大会の開催が推奨されている。
結論:中国のスポーツ政策の未来
全民健身政策は、単なるスポーツ振興策ではなく、中国の社会変革と経済発展を包括する国家戦略である。スポーツを通じた健康増進、医療費削減、地域活性化は、中国の未来を支える重要な要素となる。
今後、中国が真の「スポーツ強国」となるには、地域格差の是正、学校体育の充実、スポーツ市場のさらなる発展が鍵を握る。全民健身政策は、国民のライフスタイルをより健康的でアクティブなものへと導き、スポーツ文化を社会の根幹に据えるものとなるだろう。
【参考文献】
日本貿易振興機構(ジェトロ). (2021). 「国民健身計画(2021~2025年)」発表、スポーツ関連インフラ整備進む. JETRO ビジネス短信.
武 浩文. (2019). 中国のスポーツ産業政策に関する研究. 早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士論文.
鮑明暁. (年不明). 中国のスポーツ産業政策に関する研究. 北京体育師範学院.
宮城学院女子大学. (年不明). 中国におけるスポーツ産業の生成と展開.
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