「日本の記者は凶暴だ!」
2008年、北京五輪の競技場で、メディア対応をしていた大学生ボランティアが、私に向かって漏らした言葉だ。私は当時、中国国際放送の立場で五輪の運営スタッフとしてメディア対応の仕事をしていた。そのため、現場で働く大学生スタッフの声を直接聞く機会が多かった。
私は一瞬ぎょっとしながらも、「凶暴」という強烈な言葉が、彼の目にはどのように映っていたのか気になった。
詳しく話を聞くと、彼はこう続けた。
「ある日本の新聞記者が、資料を配ろうとした私に向かってシッシッと手を振ったんです。それだけならまだしも、英語で罵倒されました。試合中に邪魔されたくなかったのでしょうが、あまりにも酷かった」
記者という仕事は過酷だ。締め切りに追われ、膨大な情報を整理し、適切な言葉を選びながら記事を書かなければならない。取材対象者の言葉を一字一句逃さず記録し、時には意図しない解釈をされないよう神経をすり減らす。ましてや国際大会の取材ともなれば、長期間にわたる緊張の連続だ。そのストレスが、彼のようなボランティアに向かってしまったのだろうか。
だが、それを差し引いても、ボランティアに対する態度としては度が過ぎている。私が彼をなだめようとした矢先、彼はこう言い足した。
「しかも、その記者は他の日本人記者に対しても『ボランティアの態度が悪い』と怒鳴っていました。資料を配るタイミングが悪いと文句を言ったり、終始威圧的でした」
私自身、記者として取材をしてきたが、海外での日本人記者の態度が問題視される場面には何度か遭遇している。たとえば、試合後に記者席を散らかしたままにする。ボランティアを雑に扱う。公式のアナウンスを無視して会場を出ない。こうした行動は、次第に「日本の記者はマナーが悪い」という評価につながる。
記者は「伝える」ことが仕事だ。しかし、その「伝える側」の振る舞いが、取材対象者や関係者にどう見られているかについては、意外と無頓着なのかもしれない。
日本では「記者クラブ」という独自のシステムがあり、ある種の特権意識が生まれやすい構造がある。特に大手メディアの記者は、自分たちの立場が揺るがないという安心感を持ちやすい。だが、海外では「日本の記者だから特別扱いされる」という前提は通用しない。むしろ、日本の記者がどのような態度で取材をしているのかは、常に見られている。
報道の自由は大切だ。しかし、その自由を行使する者には、それに見合った責任もある。記者は情報を伝えるだけでなく、その場の空気を作る一因にもなっているのだ。
かつて私が取材した海外のジャーナリストの中には、取材対象者に敬意を持ち、ボランティアや現地スタッフと積極的に交流しながら情報を得ている人も多かった。ある欧米の記者は、取材後にボランティアのもとへ足を運び、「君たちのおかげで取材がうまくいったよ」とねぎらいの言葉をかけていた。彼らの姿勢には、単に情報を得るだけでなく、信頼関係を築くことの重要性がにじみ出ていた。
記者の仕事は、単にニュースを届けることではない。文化を理解し、相手とのコミュニケーションを通じて、より深い取材を行うことこそが本質だ。もし、日本の記者たちが「伝える側」でありながら、自分たちの行動がどう伝わるかを考えていないとしたら、それは致命的な欠陥と言えるだろう。
取材を終えたあと、私はあの大学生ボランティアにこう伝えた。
「記者は忙しい仕事だから、みんなピリピリしているんだよ。でも、本来は君たちに感謝すべき立場のはずなんだ」
彼は小さく頷きながらも、どこか腑に落ちない表情をしていた。

あれから時が経ち、報道の世界も大きく変わった。SNSの発展によって、記者が独占的に情報を発信する時代ではなくなり、誰もが情報を届けられるようになった。今、あの時の日本人記者が求めた「特権的な態度」は、どこまで通用するのだろうか。
もしかすると、最も検証されるべきなのは、取材対象ではなく、記者自身の姿勢なのかもしれない。