2008年1月、北京五輪の開幕を半年後に控えた国家体育場、通称「鳥の巣」の工事現場を訪ねた。
河南省から出稼ぎに来ていた溶接工の程さんは、五輪のおかげで生活が楽になったと喜んでいた。月給は5000元。当時の中国の建設労働者としては破格の待遇で、故郷への仕送りもできるようになったという。
一方、競技場周辺では、別の光景が広がっていた。
近くの高級マンションに住んでいた日系企業の役員は、家賃を7000元から一気に2倍にすると大家から通告された。しかも、それまでの年間契約を1カ月ごとの更新に変えるという。結局、住み慣れたマンションを引き払い、別の場所へ移ることになった。
当時の私は、そんな五輪開催をめぐる街の様子を、「五輪スタジアムが引き起こす悲喜こもごも」という記事に書いた。
国家の威信をかけた巨大事業は、北京の街を大きく変えていた。ただ、その恩恵を受ける人がいる一方で、思わぬ負担を強いられる人もいる。オリンピックという華やかな舞台の周辺では、実にさまざまなことが起きていたのである。
あれから18年。
北京市が10月16日に公表した新たなスポーツ政策を読んでいて、ふと当時のことを思い出した。
政策の名称は「大会経済の発展とスポーツ消費の促進に関する若干の措置」。中国語では「关于大力发展赛事经济 促进体育消费的若干措施」という。
そこに並んでいたのは、大会の観客に買い物や食事を楽しんでもらい、宿泊や観光にもお金を使ってもらおうという、実に具体的な施策だった。
かつて世界に中国の力を見せつけようとした北京が、今度はスポーツを通じて、人々の財布を開かせようとしている。
もちろん、そう単純に言い切れるものではない。ただ、今回の政策には、中国スポーツの役割の変化が、はっきりと表れているように思う。
スポーツを見たら、買い物をして帰ってもらう
今回、北京市が発表した政策は、全部で20項目。
2030年までにスポーツ消費の規模を拡大し、国際的なスポーツ大会の開催都市として、北京の地位をさらに高めることを目指している。
その中心にあるのは、やはり国際大会だ。
2027年の世界陸上競技選手権、2029年の世界水泳選手権などを開催するほか、中国オープンテニスや北京マラソン、卓球のWTT中国大満貫といった大会を、北京を代表するスポーツイベントとして育てていくという。
だが、今回注目したいのは、競技そのものよりも、その周辺に置かれた政策である。
例えば、大会を開催する際、周辺の飲食店やホテル、商業施設、博物館などと連携し、観客向けのサービスを提供する。
観戦前には買い物を楽しみ、試合が終われば食事や観光をしてもらう。大会を見に来ただけで帰ってもらっては困る、というわけだ。
さらに、観戦チケットを利用した優待制度、いわゆる「票根経済(チケット半券経済)」の促進策も検討するという。
日本でも、プロ野球やJリーグの試合を見たあと、スタジアムの周辺で食事をしたり、買い物をしたりすることは珍しくない。観戦チケットを提示すれば、飲食店などで割引を受けられるサービスもある。
北京市が目指しているのは、そうした大会と周辺の消費活動を結びつけ、都市全体の経済を動かそうという試みだ。
政策には、スポーツ施設の営業時間を延長し、夜間の消費を促すことも盛り込まれた。スポーツ大会と観光を組み合わせた旅行商品を開発し、商業施設でのスポーツイベントも増やしていくという。
もっとも、これらは今回打ち出された施策であり、すべてが実現したわけではない。チケットを利用した優待措置についても、これから具体的な制度を検討する段階である。
それでも、政策文書にここまで細かく、スポーツと買い物、宿泊、観光を結びつける項目が並んだことは興味深い。
かつて北京五輪では、いかに世界に中国の発展を示すかが大きな課題だった。
今度は、世界から、あるいは中国各地からやって来た観客に、いかに北京でお金を使ってもらうか。
スポーツに期待する役割が、ずいぶん具体的になったものである。
国慶節のスポーツ関連売上は29.4%増
そんな政策の背景を考えるうえで、もう一つ注目したい数字がある。
国家税務総局が10月8日に発表した、国慶節休暇中の消費動向だ。
増値税(日本の消費税に近い税金)の発票、つまり税務上の取引記録をもとに分析したところ、全国のスポーツサービス業の売上高は、前年同期比29.4%増加したという。
また、フィットネス・レジャー活動の売上高も16.7%増加した。
国家税務総局は、中国オープンテニスなどの大会が消費拡大につながったと説明している。
29.4%という数字は、なかなか大きい。
ただし、ここで少し注意が必要だ。
この数字は、北京だけではなく、中国全国の国慶節休暇中のスポーツサービス業を対象としたものである。
スポーツ大会による経済効果が29.4%増えた、という意味ではない。
そもそも国慶節は、中国でも有数の大型連休だ。旅行や娯楽などの消費が集中する時期でもある。
スポーツサービス業の売上が増加したことは確かだが、そのうち、どれだけが大会によるものなのかは、この数字だけでは分からない。
また、売上が増えたことと、それだけ新しい消費が生まれたことも、同じではない。
例えば、テニスの試合を観戦するために北京を訪れた人が、周辺のホテルに泊まったとする。ホテルにとっては売上増になるだろう。
しかし、その人が本来予定していた別の旅行を取りやめ、北京に来たのであれば、中国全体の消費が同じだけ増えたとは限らない。
大会に伴う消費と、純粋に新しく生まれた消費とは、分けて考える必要がある。
とはいえ、国家税務総局が大型連休の消費動向を説明する中で、スポーツ大会を取り上げたこと自体、見逃せない。
中国政府が国内消費の拡大を重視する中、スポーツは健康づくりや娯楽の対象であるだけでなく、消費を生み出す産業としても期待されているのである。
18年前から始まっていた「五輪後」の議論
もっとも、スポーツを経済や社会の発展に結びつけようという考え方そのものは、決して新しいものではない。
2007年10月、私は北京五輪を翌年に控えた中国スポーツ界について、「中国が見据える『五輪後』というテーマ」というコラムを書いた。
当時、中国の体育当局の担当者が語っていた言葉がある。
「五輪は目的ではなく、チャンスである」
印象に残っている言葉だ。
あの頃、中国は国家の威信をかけて北京五輪の準備を進めていた。巨大な競技場や新しい交通網、整備された街並みまで、そのすべてが世界に向けた中国のショーケースだったといっていい。
しかし、その一方で、中国スポーツ界はすでに「五輪後」を見据えていた。
例えば、大学スポーツの改革である。
それまで中国の競技スポーツは、国家が優秀な選手を選抜し、専門の体育学校などで育成する、いわゆる「挙国体制」が中心だった。
ところが、北京五輪を前に、大学をトップアスリート育成の拠点にしようという動きが出始めていた。
当時、取材した北京理工大学のサッカー部は、大学チームとして中国のプロリーグに参戦していた。
金志楊監督は、スポーツを学校の手に戻したいと語っていた。
国家主導の選手育成から、大学などの教育機関もスポーツを担う仕組みへ。五輪開催を契機に、中国スポーツのあり方を多様化させようという試みだった。
もちろん、当時の学校スポーツ改革と、今回のスポーツ消費拡大策は、目的も内容も異なる。
ただ、共通していることがある。
それは、五輪という巨大なイベントを開催するだけで終わらせず、その先に何を残すのかという問題意識だ。
今回の北京市の政策でも、五輪施設の継続利用が明確に盛り込まれている。
2008年の夏季五輪、2022年の冬季五輪を開催した北京には、大規模なスポーツ施設が数多く残されている。
こうした施設を国際大会だけに利用するのではなく、コンサートや展示会、一般市民のスポーツ活動、さらには観光や商業活動にも活用していこうというのである。
政策では、競技場を複数の用途に使う「一館多用」という考え方も示されている。
かつて国家の威信を示すために建設された施設を、今度は日常的な経済活動の場として利用する。
18年前に議論されていた「五輪後」という課題が、今も形を変えて続いているわけだ。
大会を開けば、街は豊かになるのか
ただ、スポーツ大会が増えれば、それだけ街が豊かになるというほど、話は単純ではない。
例えば、数万人の観客が集まる大会を開催すれば、会場周辺の飲食店やホテルはにぎわうだろう。
しかし、そのためには競技場の整備や維持管理、警備、交通対策など、相応の費用も必要になる。
大会の開催費用を誰が負担するのか。行政が支出した資金に見合う成果が得られるのか。
そうしたことも検証しなければ、経済効果を判断することはできない。
また、大会当日は大勢の観客でにぎわっても、翌日には元の静かな街に戻ってしまうかもしれない。
むしろ、大会を契機に訪れた観客が、再び北京を訪れるようになるのか。大会のない日も、競技場や周辺施設が利用されるようになるのか。
本当の成果は、そうしたところにも表れるはずだ。
今回の北京市の政策には、スポーツ大会がもたらす経済的、文化的、社会的な価値を総合的に評価するため、統計や調査を充実させるという項目も設けられている。
私は、この部分に注目している。
大会期間中の売上を集計するだけでなく、開催費用や公共負担、施設の維持管理費も含めて評価する。大会によって地域に残った利益を確かめる。
実際にそこまで検証できるのであれば、政策の成果を判断するうえで意味のある材料になるだろう。
思い出すのは、やはり2008年の北京だ。
国家体育場の工事現場で出会った程さんは、五輪によって待遇が改善し、故郷への仕送りもできるようになった。
一方で、周辺の地価や家賃の上昇によって、引っ越しを余儀なくされた住民もいた。
同じ五輪という巨大事業でも、人によって受け止め方はまったく違ったのである。
経済効果という数字の裏側には、必ず、その恩恵を受ける人と、負担を引き受ける人がいる。
今回の北京市の政策でも、そのことは忘れてはならないだろう。
国威発揚は終わったのか
では、中国スポーツは、これまでの「国威発揚」から「内需拡大」へと、その役割を変えようとしているのだろうか。
私は、必ずしもそう単純には考えていない。
今回の政策でも、北京市は国際的な大会の誘致を重視している。世界的な大会を開催し、北京の国際的な影響力を高めようという考え方は、今も変わらない。
スポーツ強国の建設という国家目標も、引き続き掲げられている。
世界に中国の力を見せたいという思惑が、なくなったわけではないのである。
ただ、その成果を測る物差しが増えたことは確かだろう。
かつては、金メダルを何個獲得したか。どれほど立派な競技場を建設したか。世界中にどれだけ中国の存在感を示せたか。
そうしたことが、スポーツ政策の重要な成果として語られてきた。
それに加えて今度は、観客が街にどれだけ滞在したか。どれだけ消費したか。建設した施設をどこまで利用し続けられるかということまで、政策の中に盛り込まれている。
世界に「見せる」スポーツから、社会の中で「使う」スポーツへ。
中国スポーツの役割が、さらに広がろうとしているのである。
だが、ここで問われるのは、大会がいくらの売上を生んだかということだけではない。
その結果、街に何が残ったのか。そして、そこに暮らす人々の生活がどう変わったのかということである。
2008年の北京で、私は五輪の建設工事によって生活が豊かになった作業員と、周辺の家賃高騰によって住まいを移さざるを得なかった人の双方を取材した。
あれから18年。
今度は、スポーツ大会の観客を街の消費者として呼び込み、経済を活性化させようという。
果たして、その成果は誰の手に渡るのだろうか。
北京のスポーツ政策を考えるうえで、これから見ていきたいのは、競技場の中の華やかな光景だけではない。
その周りに広がる、北京という街の変化である。
<了>
参考資料
北京市人民政府弁公庁「大会経済の発展とスポーツ消費の促進に関する若干の措置」(2026年10月16日公開・中国語原文PDF)
北京市体育局「大会経済の発展とスポーツ消費の促進に関する若干の措置」政策解説(2026年10月16日)
国家税務総局「増値税発票データに見る国慶節休暇の消費動向」(2026年10月8日)
